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歴史・郷土・文化
現在位置:HOMEから歴史・郷土の中の町の歴史の中の幕別町百年史 第3編教育・社会 文化・スポーツ
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 幕別町百年史
第3編 教育・社会

第2章 文化・スポーツ


1 文学
  俳句  十勝俳句村  短歌  あゆみ短歌会
  十勝アララギ短歌会  勉三ら水田成功を詠う  若山牧水歌碑
  佐藤春夫の「わが北海道」  岩野泡鳴の「断橋」
  「極光」と町民文芸誌
2 演劇・音楽・美術
  橘座  演劇  音楽  美術  水墨画  まくぺつ町民芸術劇場
3 電化・放送
  明治時代に街灯  ラジオ・テレビ  新聞
4 スポーツ
  野球  卓球  庭球  相撲  陸上競技  スキー  スケート
  柔道  バレーボール  剣道  弓道  水泳  アーチェリー
  ソフトボール  バトミントン  登山  幕別町体育連盟
  農業者トレーニングセンター  札内スポーツセンター
5 ゴルフ・バークゴルフ
  帯広国際ゴルフ場  札内川ゴルフ場  パークゴルフ

1 文学
 俳 句 明治40年頃、詩人・佐藤春夫の父・豊太郎が、
  秋ひとり馬にもの言ふ野末かな
  五位啼くや夕べしぐるる河のほとり
と止若村で俳句を詠んでいる。また、明治41年に、止若村で夏休みをすごした佐藤春夫も後年、
  木がらしや開墾小屋の豆ランプ
と当時を思い起こして作句した。豊太郎の句は、現存する句では最も古い。
 明治38年、榎本鳴海(繁平)によって俳句結社「止若弘風会」が興された。榎本繁平は明治6年4月、兵庫県三原郡八十村で生まれた。明治27年に渡道して利別村に入り、のち止若村に移住、明治44年1月から幕別村役場に奉職した。行政の項で述べたように、一級村となった大正8年に収入役に就任している。
 大正3年4月、武智和平が幕別村長として着任以来、止若市街の俳句熱は更に高まりをみせた。武智は「暁雨」と号し、俳句の宗匠として知られていた。止若弘風会には細田芦雪、獣医師でのち札幌手稲の村長となった河合新三郎(孤月)、高橋亀三郎(三亀)、真野護(静海)、木川政二郎(北水)などのほか電気・ラジオ商の相原紅夢、橋本正一らが加わり、鳴海宅で句会を開催した。大正6年3月、武智は音更村長となり、かわって石原重方が村長に就任した。石原は漢詩をよくし「冬蝉」と号した。冬蝉、星山松濤、鳴海はよく連れだって途別温泉に遊び、詩や俳句をものにした。
      遊途別温泉
  靈泉滾々湧 秋気蕭々來 浴後吹煙坐 洗除面上挨    石原冬蝉
  嵐気満書案 溪光照小窗 浴後閑夢覺 聴断水淙々    同人
  洗得炎埃與俗縁 俗樓酔倚翠微巓 清遊半日忘機客 座看間雲臥聴泉  星山松濤
  無数青山遶途郷 樹間隠見動溪光 軽雷載雨去何處 只有涼蝉躁夕陽  同人
  睦み合ふ温泉宿二軒や梅柳      榎本鳴海
  夜振火や途別河畔を温泉壷から    同人
  汽車待つ客も温泉に来る夜寒哉    同人
  てふてふも呼て止たし帰り花      同人
 鳴海は大正6年9月、函館の蚊雷庵北条澄水から判者の免許と「蚊素庵鳴海宗匠」の称号を受けた。大正後期の弘風会の活動は不明だが、後述する三人遺句集「福寿草」の内容から見る限り活発な活動をしていたようである。昭和に入って若い人が鳴海の門をたたき、弘風会の黄金時代を礎いた。人々は若い世代を「新派」といい、前者を「旧派」と称した。新派の俳人は形式的な俳句からの脱皮を試み、新しい形の俳句づくりを行った。新派の主な俳人は榎本梅谷、新田孤峰、新田深翠、乙武世水、滝川登、佐藤冬青、野村琴海、大石潮三、富田裸子、榎本静雄、伴野?洋、半野敏行らである。このほか、山崎千濤の「蝦夷野止若支社」が金剛寺に置かれ、新田孤峰が責任者となった。弘風会、蝦夷野支社合同の句会が鳴海宅、善教寺、金剛寺を会場に、しばしば開かれた。
 戦争の激化と鳴海の死去などから句会も開くことなく終戦を迎えた。内山筏仗によると昭和21年11月17日に鳴海の法要句会を榎本宅で開催している、このころの同人は高橋甘木子、吉川圭雲、土井比呂志、金内?人、菅原繁光、橋本俊光、矢田枯柏、徳丸沓坡、浅見稲香らであった。のち、それぞれ責任ある職務につき、あるいは勤務の関係から止若の地を離れ、時折り俳誌に投稿するのみであった。
昭和35年、榎本鳴海の句碑建立の声があがり、この年の7月24日、止若公園で除幕式を行った。句碑の正面には鳴海の句。裏面には若くして世を去った榎本静雄の句を刻んだ。
  野ひろしも二月菜汁の実にこまる    鳴海
  一夜明くれば摘みとられいし牡丹の芽  静雄
 静雄は鳴海の長男。幕別尋常高等小学校から札幌師範学校に進み、昭和6年3月卒業して母校の幕別尋常高等小学校の教員となったが早世した。俳句の雅号は「露香」のち「甦炎」と改め、多くの作品を残した。
 昭和58年6月12日、石川蒼舟、中島丘畝、嶋信一らが提唱し、初の句会を札内働く婦人の家で開催した。翌59年、大石潮三、河瀬杏林の呼びかけで幕別、札内合同俳句会を6月26日に働く婦人の家で開催した。この俳句会を期に、古い歴史をもつ「幕別弘風会」が復活した。以後、月2回、幕別と札内で交互に句会を開催し、また河瀬杏林が手作りで合同句集「北辛夷」を昭和61年から年1冊発行している。平成3年2月末現在の同人は次の19人である。
  佐藤吟秋、森元秋声、白川浪子、児島澄子、三船京子、大石潮三、
  金田雄月、河瀬杏林、西如風、中島丘畝、中橋正蜂、野々村春水、
  千賀素風、須田としお、中田美恵子、斉藤園澄、輔田あい子、
  本間紀子、立野のり子。
昭和46年5月、幕別町役場を退職した榎本梅谷は、内山筏仗の「樺の芽」に所属し再び作句を始めた。49年に編集委員、55年から編集長となり、樺の芽を隔月誌から月刊誌とし、1日7句を作句することを自ら義務づけ励行した。死亡(58年3月21日)のぜんじつの俳句手帖に8句を書き残していた。梅谷の二男・充彦が祖父・鳴海、伯父・露香、父・梅谷が四季折々に詠んだ句を整理し、三人遺句集「福寿草」を発刊したのは昭和59年3月1日。句集名の福寿草は鳴海の「この上に望む名はなし福寿章」からとった。発行人は梅谷の妻正子。同年4月29日に幕別弘風会主催の発刊祝賀会と出版記念俳句大会が町民会館で開催された。
 十勝俳句村 十勝俳句村は、当初、帯広市の公園内に建立する考えで計画されたが、生存者の碑を公園内に建立することが条例で禁じられていたため断念したという経過があった。榎本梅谷、内山筏仗らが幕別町の許可を得て、依田公園内に10基の句碑を建立し、村是を定めて開村したのは昭和55年11月3日。村長に梅谷、議長に佐々木露舟を選び、筏仗が名誉村民となった。58年3月、梅谷にかわり大石潮三が村長となった。
 句碑は55年に10基を建立したが、その後、57年4基、58年5基、59年6基、60年1基、61年12基、63年5基、平成元年4基、2年8基、3年12基、4年9基、5年3基、6年2基の計81基、比翼句碑、親子句碑があるため村民は85人、うち幕別町民は次の17人。他は帯広44人、士幌7人、鹿追6人、音更5人、本別2人、札幌、足寄、中札内、池田の各1人。カッコ内は俳号。
  石川正海(蒼海)、建部秀義(蘭蝶)、中島弥吉(丘畝)、榎本梅谷(梅谷)、大石忠雄(潮三)、河瀬杏一(杏林)、榎本繁平(鳴海)、榎本静男(甦炎)、千賀孝雄(素風)、佐藤一馬(冬青)、輔田あい子(あい子)、中田美恵子(美恵子)、中橋正夫(正峯)、西久満男(如風)、斉藤すみ子(園澄)、野々村春雄(春水)、梅津武(?人)

 短 歌 開拓時代から折りにふれ歌われ続けた短歌は、こと幕別に関するかぎり俳句に押されて、その影は薄かった。明治から大正にかけて大月富次郎、郡某らによって歌会が開かれたが、これという記録は残っていない。大正15年10月13日の若山牧水日記に「歌会では止若から来た社友桑折如水君がゐた。君の名を見て来たのは随分と久しいものであったが、ついに逢ふことが出来た。」と書かれている。歌会は池田町で開かれたが、桑折の消息は不明。牧水歌碑建立の際にも名前はみえない。
 大正15年10月18日、若山牧水が喜志子夫人を伴い、札内郊外の黒田温泉で旅の疲れを癒した。短歌界の大御所・牧水の来村は、幕別、特に札内地区の短歌界に大きな刺激を与えた。その一つとして昭和5年、粒羅融、中寺常次郎、長谷松蔵、戸島定一、大堀秀司、山出龍水、石谷戈吉、金山金一、泉留吉、内海鶴記、池崎友子、奥野姫代子、佐藤軍治、竹林与吉らが「蒼穹十勝支社」を結成、活発な作歌活動を行った。後述するが、牧水が滞在した黒田温泉の前庭に「幾山河」の歌碑建立の呼びかけをしたのは蒼穹十勝支社である。蒼穹十勝支社の活動は、戦争の激化とともに自然消滅の形となった。
 大正12年9月、慕別尋常高等小学校の代用教員となった千葉一也は、昭和2年に佐藤一馬らと「槲実社」をおこし、止若歌会を主宰した。千葉一也は昭和4年に太田水穂の「潮音」に、翌5年には小田観蛍の「新墾」に参加し、同8年には止若で前田道治らと「SOS杜」を組織し、歌誌を発刊した。歌誌は3号で廃刊となったが、昭和21年には野原水嶺、渡辺洪らと「辛夷」を発刊するなど短歌とのかかわりを深めた。
 昭和56年、渡辺洪と辺見徳明が千葉一也の歌碑建立の声をあげた。辺見は千葉一也が下似平尋常小学校長時代の教え子。この動きは友人の大石忠夫幕別町長、榎本梅谷俳句村々長、教え子の森敏雄らに広がった。翌57年3月5日に発起人会を組織し、代表に野原水嶺、副代表に辺見徳明が就任した。
  ここにきて あさやけからす啼くきけば ひびけり神の斧ふるふ声
の歌碑を依田公園に建立し、千葉一也も出席して7月24日に除幕式を開催した
 アララギに所属し作歌に励んだ明野の土井比呂志は、島木赤彦の一番弟子である高田浪吉と作歌を通じて交遊を重ねていた。高田は、
  早や来よと 土井比呂志よりの手紙よみ 十勝は遠しまだゆけぬを
と札幌で詠った。高田は昭和23年6月に明野の地を訪れ、土井宅で3日間逗留し、この時に詠んだ34首を歌集「木苺」に収録した。うちの2首は次のとおりである。
  ゆうべ歩む 十勝明野の広原に 天遠くかくる日高山脈
  起状の高畑 野べを越え見ゆるはるか 十勝川光りをるにや

 あゆみ短歌会 昭和33年4月、高橋由貴子、塚田トキ、勝山春代らによって短歌愛好者の集いが持たれた。のち、成人学校の一講座として同好者を募り、拓銀勤務の山内白葉を講師に迎えて「あゆみ短歌会」を結成し、会長に勝山春代がなった。翌34年4月14日、会員の歌の結晶である歌集「あゆみ」を発刊した。昭和42年現在の会員は次の12人であった。
 高橋由貴子、塚田トキ、勝山春代、山田仙太郎、森田美恵子、木藤保一、長尾敏子、大西玉枝、谷口幸子、黒田照依、塚田常子、二川しげる。
 あゆみ短歌会では定期的に吟行会を開催し、山内白葉の転勤以後は「鴉族」の寺師治人に師事し、昭和45年11月1日に合同歌集「あゆみ」、55年10月1日に「まどか」、平成2年6月1日に「ともしび」と、10年ごとに合同歌集を発刊、また、新聞、町民文芸誌に投稿するなど作歌活動を続けている。2代目会長は60年から高橋由貴子。平成3年4月現在の会員は次の22人。会長の高橋由貴子は、十勝文化団体協議会の平成5年度文化賞を11月23日に受賞した。
坂東美世、正田やえ、森田美恵、浜中十郎、溝口フミ、小山利子、棚久子、清水はる代、松田忠子、宗広とくえ、高橋由貴子、高木さわ子、塚田常子、妹尾道子、井上松野、鎌田あきの、斉藤ヒデ子、長谷川勲、大沢美枝子、久保田信子、安藤温子、山本光子

 十勝アララギ短歌会 正岡子規没後、その門人らが根岸短歌会の機関誌として刊行した「馬酔木(あしび)」「アカネ」の後をうけて、明治41年(1908年)10月、蕨真(けっしん)が「アララギ」を創刊した。翌年9月から伊藤左千夫を中心に編集、大正3年(1914年)から島木赤彦が、赤彦没後は斉藤茂吉、土屋文明らが編集し、大正・昭和を通じて歌壇の主流となった。アララギとはイチイの別称。
 昭和53年1月、上士幌町で十勝アララギ短歌会(代表・黒沼友一)が発足し、幕別からの参加者も増えた。黒沼は昭和60年4月に札内文京町に転居して事務局を置き、管内外60数人の会員が熱心に作歌活動を行っている。
 この間、昭和34年から毎年開催している北海道歌会の第26回大会(昭和59年8月)と第31回大会(平成元年8月)を、町営国民宿舎幕別温泉ホテルで開催した。この大会にアララギの選考で、平成5年宮中歌会初めの召人・吉田正俊が出席した。吉田は平成6年の第36回目の北海道歌会も担当した。
 札内文京町の事務局からは随時、会報が発行されているが、平成5年9月に発刊した合同歌集「北国」には、本町から次の17人が参加した。
 黒沼友一、黒沼秀子、井上松野、二川幸子、斉藤きえ、須田敏子、佐藤フミエ、井上美恵子、黒沼友之助、黒沼カチ、井上カメ、樋田トシ子、佐藤弘美、久保照子、加地真知子、佐藤勢津子、野田ヒサ
 勉三ら水田成功を詠う 大正9年11月、依田勉三は途別水田の目鼻がついたのを記念して、途別の黒田温泉に宴席を設けた。出席したのは渡辺勝、鈴木銃太郎、津田禎次郎、安田巖城の4人、これに勉三を加えて水田の成功を祝った。この宴席で披露された席詠は次のとおりである。
  松浦の大人の望成りにけり 十勝川辺の公園の秋  津田禎次郎
  十勝野に水田を開き稲うえし はじめの祖は君にしありけり  安田巖域
  家毎に積むや穂通の途別村 かても豊かに見ゆる里かな  鈴木銃太郎
  今ははや昔かたりとなりにけり オベリベリプの新墾の親  渡辺 勝
  有難し雨の降る日の蓑とかさ 錦に勝ることな忘れそ  依田勉三
 また、勉三は出席者に特別の揮毫を依頼した。勉三作の七言絶句を勉三と縁の深い人々で書き継ぐという趣向。詩は、
  君去春山誰共遊 鳥鳴花落水空流
  如今送別臨渓水 他日相思来水頭
 君、春山に去る、誰と共にか遊ばん、鳥鳴花落ち水むなしく流る、如今の送別、渓水にのぞめば、他日相思うて水頭に来らん。
七言絶句は当日会した4人が、その場で書き、あと各所を持ち回って伊豆大沢で完成した。
  君 去  此二字伏古涓々洞書(津田禎次郎)
  春 山  狸 堂    (渡辺勝)
  誰共遊  巖 城    (安田巖城)
  鳥 席  道 分    (鈴木銃太郎)
  花 落  蘇 堂    (田口秀正、茂岩の草分け)
  水空流  尊 親    (二宮尊親、尊徳の孫)
  如 今  百草園主嘗国翁(諏訪鹿三、元河西支庁長)
  送 別  芽 村    (大村壬作、芽室村長)
  臨渓水  波 円    (波多腰円一、農場経営者)
  他 日  酪農行脚生  (小林直二郎)
  相 思  五 羊    (依田善吾)
  来水頭  団 獄    (依田佐二平)

 若山牧水歌碑 放浪の歌人といわれる若山牧水が、喜志子夫人を伴い、途別川のほとりにあった黒田温泉に着き、あまりにも荒れはてた建物におどろき「明日は早立ちだ」と案内人にぐちるほどであったという。ところが、翌朝、眼をさました牧水は、旅館のそばを流れる途別川の清流、白雪の十勝岳、石狩岳が、すっかり気にいり、早立ちの日程はズルズルと5日間の長逗留となった。牧水は黒田温泉に清遊した翌々年の昭和3年、好んで飲んだ酒も原因して死去した。
 昭和12年3月、蒼穹十勝支社では、牧水ゆかりの地に歌碑を建立することになり、碑石に適当なものを見つけ、牧水の流れをくむ「創作」社友の菊池蒼村に協力方を呼びかけた。菊地はこの呼びかけに応じ、粒羅融、幕別村会議員の笹島喜八郎、角田政平と牧水来勝の折に泊った池田町の医師で「吾妹」の中島竹雄を加えて歌碑建設発起人会を組織し、趣意書を各方面に配布し協力を求めた。
     若山牧水歌碑建設会趣意書
明治、大正、昭和を通じての自然歌人、若山牧水が北海道行脚の途次、十勝国幕別村札内在の黒田温泉に月余の旅の疲れを癒されて居られたのは大正十五年の秋十月の事でありました。十八日から二十二日迄の五日間の滞在中、同温泉をめぐる諸々の老木の紅葉、朝晴れの窓にひびく樫鳥、啄木鳥の啼声、縁側より見ゆる十勝岳、石狩岳の雪の山脈等の自然は牧水の旅情をいかばかり慰めたことでありましよう。再度の来勝を堅く約して去られた牧水はその翌々年忽焉として日本歌壇よりその姿を消して了ひました。
その頃より私達はこの温泉の庭に牧水の歌碑を建立したいものと念ふて居たのでありましたが、今回この由緒ある黒田温泉も閉鎖さるると聞きまして、これを機に多年の懸案であった歌碑建設に着工、歌聖牧水曾遊の地を永久に記念し同所をば十勝の一名跡たらしめたいものと茲に同志発企となり本会の設立となったのであります。
大方の御賛助御支援の下にこの意義ある企てを完成せしめたいものと存じます。
  昭和十二年三月
    十勝国札内市街 粒羅方
      若山牧水歌碑建設会事務所
        発起人
         池田 中島竹雄
         札内 笹島喜八郎
         同  角田政平
         同  粒羅 融
         帯広 菊地蒼村
         (以下省略)
 心配されていた寄付金は4616円が寄せられ395円22銭を支出し、残金20円78銭は歌碑保存会に引き継いだ。碑石は軽川の自然石で厚さ38センチ、高さ1メートル56センチ、刻む歌は、初め「うす紅に葉はいちはやくもえ出でて咲かむとすなり山桜花」が候補にのぼったが、牧水の直筆という要望から、牧水の高弟・大悟法利雄の所持していた「幾山河」の短冊を借り受け、これを写真で引きのばし、5月5日から石匠の鈴木重次郎が刻字に着手した。
 5月30日の除幕式は角田政平の開式の辞で始まり、菊地由美子(蒼村の娘)によって紅白の幕が切って落され、泉留吉が碑面の「幾山河」の歌を朗詠した。牧水歌碑を依田公園に移設した経過等は行政の項で述べた。以下は牧水が黒田温泉に滞在した日記である。文中、登別温泉とあるは途別温泉の誤りで、牧水の聞き違いによるものと思われる。また、牧水歌碑は全道で幕別の地にしか建設されていなかったが、昭和54年11月に上砂川町上砂川温泉に建設されたため全道で2基となった。歌は「秋すでに蕾をもてる辛夷の木雪とくるころ咲くさまいかに」。
     牧水の途別温泉滞在日記
 十月十八日
網走を立つ時から交渉しておいた夕張方面との予定変更の打合せなかなかに渉らなかったが、今日電報にて承知の旨言ひ来った。即ち此処で五日間の静養日が生まれたわけである。
サテ、今度はその静養の場所だ、其儘帯広に寝てをれば、一番安心なのだが十五日に此処を立った演習の兵隊が明日引返して来て明後日此処で観兵式を挙げるといふので、町全体が前代未聞の騒ぎとなってゐて到底滞在出来さうにない。さればとて遠くへ行くのも億劫なり、種々談合の末、この一つ東寄りの駅札内にあるといふ登別温泉といふへ行くことにきめた。此処も沸し湯で、どうせ好い所ではあるまいがとのことであった。午後五時過ぎ、その登別温泉黒田旅館といふへ落ついた。札内駅から三十町程の所にあった。これはまた恐るべき温泉宿で、どうせ初めから覚悟はして来たものの宿屋全体が一種の廃屋じみてゐるのである。壁落ち、柱傾き、我等の通された八畳の部屋は、八畳づつ四室が十文字に仕切られた中の一室なのだが、部屋と部屋との間の襖がすべて充分に締まらないので何の事はない三十二畳敷の片隅に坐らされた様な有り様であった。而してこの三十二畳の部屋はお勝手より廻廊にてやや高みに登った離室風の部屋なのである。茫然として顔を見合せてゐるところへ、ランプが点された。若し、其時進藤氏が送って来てゐて呉れなかったら、我等夫婦はたしかに泣き出したに相違なかった。
せめてもと炭火を山の様に熾し、徳利三四本づつを取り寄せておき自ら燗しつつ相酌むことにし、強ひて心を慰めた。他に相客とて無く、たまたま我等三人の挙ぐる笑ひ声が異様に家に満ちて響いた。十時の汽車にて帯広に帰るといふ進藤氏を送って門前へ出た。素晴しい月夜である。「十三夜ですな」そう言って別れて行った進藤さんの姿はいつまでも野中の徑に見えてみた。門前を水の豊かな田川が流れてゐたが、其処にも練りつ砕けつして流れてゐる月の影があった。霜が深いのであろう、身震ひの出る寒さである。
 十月十九日
恐るおそる眼を覚す。兎にも角にも無事に一夜は明けたのである。雨戸は無く、曇りガラス戸の縁側が晴らしい明るさを見せて居る。立ってあけようとすると此処も開閉不能である。便所に行く。落ち溜った壁土の上に草履を踏んで用をたすのである。而して其処の破れより快晴の空を確めた。
辛うじて一二枚のガラス戸を引きあけたわたしは寧ろ呆れながらに眼を見張った。ツイ其処の庭先から驚くべき林が起ってゐるのである。何やらの老木の立ちこんだ荒々しい林は林なりに急な傾斜の岡となり、岡はかなりの高みを保ったまま左右に遠く打ち続いてゐるのである。この見ごとな林はいま丁度紅葉の盛りであった。北海道に来て初めて知った木の桂は既に落葉し、直径三四尺もあろう大きな真直ぐなその幹は干乾びた様な枝もあらわに天をさして冬枯れてゐるのである。が、それに立ち混ったさまざまの老樹たちは、黄樺、淡紅、其他とりどりの色を含んで紅葉してゐるのである。朴の木は
桂と同じく既に葉を落して白く太く枝を張ってゐた。
茫然としてこの不思議な林に見入ってゐると、その木の深みに何やらの鳥が啼く。啄木鳥である。一羽か二羽の声である。やがて其処へ怪しい啼声を先立てて姿を表わした鳥がある。樫鳥である。三羽、五羽、七八羽、美しい羽根を見せて悠々として木から木へまひ遊んでゐる。わたしは耐へかねて妻を起した。
今朝早々この宿を逃げ出さうかと思うてゐたわたしの考へはこの林を見ると共に消えてしまった。そして朝食の席で、懇々として細君に転宿の不可を説いた。
日和もよかった。宿の前は小川を挟んだ田圃で、田圃から起った丘陵は遠く波浪の様に起伏し去って限りもなく空の果てには並び立った雪の山脈があった。石狩境の十勝岳石狩岳三国山などらしく考へられた。門を出て直ぐ左に曲ると道は
とろとろと片登りの坂となってゐた。即ち宿の屋後の岡の続きを横切って登って行ってゐるものである。この道の左右には矢張り屋後の林の続きが、其処よりはずっと疎らにはなりながら同じ紅葉の木立を見せてゐた。妻と共にその坂道を登って行った。霜が解けて紅葉のつやは一層であった。そして坂を登りつくすと其処はまた思ひもかけぬ広々とした平野となってゐた。野は半ば開墾せられ例の如く木の株の散在する間にちらりほらりと開墾者の小屋の立ってゐるのが見えた。そしてそれと共に積みあげられた豆の塚があちこちに見えた。豆は大豆隠元等らしく、莢も枝葉もうす黒く枯れて積まれてゐた。私は思うた。この平野もさまで遠くない以前までは鬱然たる森であって、宿の裏の林な
どはその名残と見るべきであろうと。而して平地の森は伐られ焼かれ、一つの平地が次の平地に切れ落つる断崖斜面にあった森林のみが自づと残され、宿の裏などは宿の主人の好みか何かで特に斧を入れたかったものであろう。さう思ふと一層わたしは彼の庭先の古びた林がなつかしかった。
林の木はまことにいろいろであった。わたしに解る分で、桂、せん、やちはん、いたや、かへで、朴、あかだも、落葉樹などあった。若木もあるが、老木が眼についた。木から木の間を歩いてみると、落葉松葉の匂がこの鮮かな日光と共に匂ひ立った。野葡萄の蔓は到る所の枝から枝に這ひ、実はすでに涸れてゐたが、それでも自からなる乾葡萄の味を持ってゐた。
昼夜、散歩、入浴で一日終った。
 十月二十日
また快晴。
行事昨日と同じ。ただ「創作」十一月号のために「創作社便」を書いた。
夕方思ひがけず北町君自転車にて来訪、「一寸様子を見に来ました」とのみにて直ぐ辞去。そのあと、一時雨降りすぎた。
 十月二十一日
また快晴。
樫鳥が実に多い。五羽、十羽と群をなしてこの岡の蔭の林を次から次へとまひ移ってゆく。
日の当る縁側に腰かけ、林に入り、部屋に坐り、敷き放しの布団に潜りなどしてゐるうちにやや元気出でて「北海道行脚記」第一回分を書き初む。但し半分は眠りながらの為事である。
妻も半ばは布団を被ってゐた様だ。その布団極めて重く、一人で一枚を辛うじて持ちあげ得る。だから女中の手にもあまり、この三十二畳敷の一隅に敷き放した万年床は自然と彼女をも喜ばした。食器、食物、すべてに笑ひながら親しめた。夕方、帯広より進藤氏、北町君及びその友人某君来訪。今日は心より愉快に談笑しつつこのあばら家の夜を賑わした。あばら家と云ってもこの家は建ってまだ年浅いのだが、土地が凍りつ解けつするために土台定まらず、斯う云ふ風に壁落ち、襖建具が動かぬのださうだ。少くも地下三尺を掘り、コンクリーか何かにて固めねば安全な家は建てられぬといふ。多少の差こそあれ附近の家は全てこの状態なのださうだ。
十時の汽車にてと三君辞去、今夜もいい月夜であった。
 十月二十二日
霜深く、よき日和。
朝早く、オートバイにて神部君が喜志子の事を心配して見舞いに見えた。彼女にも此処の休養よく利いたらしく診察して頂く程の事もなかった。気の毒に同君は途中オートバイより落ちたとかにてズボンの膝の処破れ、血が混んでゐた。
喜志子はいつかこの宿の主婦と仲好しになってゐた。年四十一二、徳島の生れとかで此処に来て十五年になるといふ。帯広辺の人の妾としてこの宿を預ってゐるらしく、年に似気く朝夕に化粧してゐるのが哀れであった。
演習のせゐか、旦那らしい人をば一度も見なかった。唯だ且那の子供らしい初年級の中学生が友人を連れて遊びに来てゐた。この少年に仕ふる主婦のまめまめしさも眼についた。主婦の外に十九か二十歳の女中一人、ほかに猫が一匹ゐるだけであった。この女中、丁度その道の事を覚えた盛りらしく、こてこてと塗って常に隣家に出向いてゐた。隣家というのは川を距てて今一軒ある湯宿で、其処に恰好な若い者がゐるのだそうだ。食事の時ごとに主婦が呼べばのうのうとして帰って来た。
少し足りないらしい、そしてあらはに瞳を燃やしてゐる血色のいい、割合に締麗な顔であった。
午後、この不思議な、そして思い出の深い湯宿を去った。おどおど送って出た主婦の眼には涙があった。屋後の森も、門前の小川も誠に忘られ難い野の隅の岡の麓の林の蔭の湯の宿であった。
帯広に帰り北海舘に入った。
 なお、平成4年11月11、12日の2日間にわたり、宮崎県東郷町で「現代に生きる歌人牧水」をテーマに、歌碑所在の21市町村の関係者が集まりサミットを開催した。町から林照男町長らが参加した。
 佐藤春夫の「わが北海道」 昭和38年6月、詩人の佐藤春夫は、作家の井上靖に誘われて来道、豊頃町の実弟宅に泊った。春夫は、この北海道の旅と、中学生のころ、止若村の父のもとで過したことなどを回想した「わが北海道」を北海タイムス紙上に連載した。
 札幌を朝、たぶん八時頃に出た汽車が狩勝峠を越えて最も日の暮れのおそい夏の日の沈むころ今の池田駅の次のあたりに
あった利別とかいう駅に着いた。父が仮寓として擇んでゐたのは豊頃村上若という戸数十戸あまり(?)のごくさびしい部落であった。
 春夫の父・豊太郎は医者で、また文学の趣味もあり、読書家でもあった。明治31年8月下句、豊太郎の姿が、大津へ通う定期船末広丸の中にあった。この船内で10歳くらいの女の子を連れ、河西支庁長として赴任途中の諏訪鹿三夫婦と会い親交を深めた。諏訪の尽力もあったのか、明治33年12月20日付で、十弗原野に20戸分100町歩の土地を手に入れ、この土地に郷里の和歌山県下から募集した小作人を入植させた。豊太郎が薬局生を一人つれて止若村に移ったのは明治40年のことである。その翌41年8月、春夫は父のもとで北海道の夏を過した。18歳のときから東京に住んでいた春夫は、東京を故郷という感じを覚えず、僅か2か月あまり住んだ止若の地をなつかしみ、わが北海道の序章「ふるさとの思ひ」で次のように書きつづっている。
利別駅で下車して迎えの馬車で一里ばかり山野の道を、利別駅で母が買ってくれた東郷まんじゅうを抱へて灯ともしごろ止若部落に到着した。
止芳は前記のとほり当時は、森林の片隅を開いたばかりの所にバラックの小屋七八軒が軒をつらねて幅の広い道に沿ひ、父の家はそのはづれの小川だか溝だかの片わきに、もとは穀屋か何かか、それともこの辺一帯の家づくりの風か、間口の広い、その半分以上は土足で踏み込む板張の土間の片わきが四畳半と六畳ぐらゐの二間つづきで表側の四畳半の前には何やら大きな雑木があり、家の裏には馬小屋があった。弟が家の近くで魚を釣って遊んだと言ふのは、多分東側にあった、あの溝川であろう。
父はさういふ仮寓で熊野からつれて来た薬局生と自炊しながら、開業ともなく頼まれれば患者を見たり投薬をしたりしながら、まさに始めようとする開墾の夢に熱中してゐたものらしい。
わたしはその夏中、薬局生の若者と一しょに、毎日夕方になると馬小屋から馬を曳き出して、家の前の広いま直ぐな道を、十勝川の一支流らしい流れのそばの花の咲いた宵待草の茂みで馬を洗うのを日課にしてゐたが、しまひには馬は曳かないで、それに乗ることを習いおぼえ、危っかしい乗馬を慰みにした。
父の家の附近は、やや大きな家がまばらで、向ひは時計屋か何かであったし、すぐ向ふは雑木の十本ばかりまばらに立つ奥に種馬屋が馬と一つ屋根の下に住んでゐたのが物珍らしく、またある夕方、夕日のなかに人だかりがして、木につないだ馬に種つけをしてゐたのを、人かげからそっと見物しながら、何やら気まりの悪い思ひをした記憶があるのは、ちょうどそういうものに特別な興味を抱きはじめる年ごろであったためでもあろう。また附近の森のなかにあった白人(チロット)とか言ったアイヌ部落を馬車で見物に行ったのもよくおぽえてゐる。
夏休みが過ぎるころ、わたくしと次弟とは母とともに学校へ帰ることになったが、一夏を家族とともに暮らした父は、皆がどっと引揚げてしまふのがさびしかったのか、また小学生の末弟は学業は父が教えるから来年の春までここに残して置けといふのを、父が最も愛し、また常に父を恋しがってゐた末弟も拒まなかったし、大丈夫ひとりでここに居られると言ふから、彼をひとり残して、わたしと次弟とは母とともに熊野の家へ帰った。
 佐藤春夫は、昭和38年の来道の際、時間にゆとりがあれば止若に行ってみたいと考えていたが、すっかり開けて、ひとかどの町になったと弟から聞き、止若行きを思いとどまった。そして「わが北海道」を書きあげ、一冊の本になるのを待たず昭和40年5月に死去した。
 岩野泡鳴の「断橋」 岩野泡鳴が明治44年1月から「毎日電報」に発表した「断橋」は、泡鳴自身がモデルの田村義雄が、道会議員遠藤長之助(モデル田口源太郎)の随行員として日高、十勝を視察して回わる話が中心となっている。泡鳴は臨時道会に出席する田口と浦河で別れ、以後、一人で十勝国に入った。泡鳴は大樹から似平(イタラタラキ)を通り、幸震(帯広市川西町)から帯広に抜けた。当時、似平は幕別村の行政管轄下にあり、下似平は現在の美川地区である。
不成功に終った牧場の牧棚が朽ちっ放しになってゐるのを左右に見て進むと、茅の中にはきりぎりすがうら寂しく鳴いてゐるし、カケスが沢山飛ぴまわってゐる。山葡萄の黒い小粒な実が多い。原野は矢っ張り槲の密接林だ。幅の広い道路がついてゐるが、日に人が一人通るか、三人通るか分らない道であるから、雑草が跋扈していて僅かに一筋か二筋の細い路になってゐる。似平で馬を換へた時、ついて来る馬子もなくなった。そして、三里半、また人家もない槲とすすきとの高原を進まなければならなゐ。義雄は非常に飽きが来た。自分の神経までが單調子になった。然しそれが却ってよく單調子の天然に親しんで来て、見渡す限りの原野が孤寂な自分の自覚内に這入って
来た。すすきの野を出でて槲の林に入り、槲林を出でてまた薄の野に入る。それが馬上の渠にはどこまでも自分の神経範囲を進んでゐる。ただ乗り馬が荒馬なので、道を左右にそれて、なかなかすすきの間を出ない。通りがかったアイヌに手伝わせて、本筋へ引き出し、うんといじめてやったのでやっと乗り手の自由になる様になった。
道が一筋道に沿って渡るので、倦んだ自分は独り手に前進してゐる。思いはうつらうつら都の友人のことや、長くまたは近く会わない愛婦どもの上に馳せてゐると、馬も亦半ば眠ってゐたのだろう。つまづいて倒れかけた。気がついて、義雄が手綱を引き締め、馬の思い首をあげさせると、また馳け出す。この時、渠は遠藤の云った通り、馬は如何にも正直で、可愛いものだと云うことが分った。馬の戦慄は直ぐ乗り手に響き、乗り手の惰眠は直ぐ馬にうつるのである。
ふと見渡せば、義雄は青、黄、または紅色であや取った大風景の中を進んでゐる。種々な色の競進会をとほってゐる。晴れ渡った天空の藍のもとに、馬上の人は黒く地に投影し、すすきのぼつとした穂は近く遠くかさなり合って、うす綿を敷
きつらねた様な原野に、木口の枝葉は青に、浅黄に、黄に、赤に、また紅。山は遠く薄墨の遠近と高低とを以てうねり行き、その後から幸震岳がかしらを現わし、真っ白に雪が積んでゐるのが見える。そして海上らには、地平線と相つらなって、灰色の雲が平らかに日光に輝いてゐる。
行く手の槲林をのぞんで急ぐといつまで行っても、すすきの野だ。そして目の前に遠く、矢っ張り、同じ様な林が見へる。いつかそれに這入って、いつそれを抜けるのか分からないほど、近よってみれば、まばらな紅葉林だ。北海道の特色なる十勝原野のそのまた特色は、曾て氷峠が云った通り、この似平高原だと、義雄は初めて感づいて見れば、なお更ら名残りが惜しまれた。そして暫らく馬をとどめると、馬が一と声いなないたのが如何にも山野の魔気を呼び寄せる様で、自分ながら自分の孤独の立たずまいに堪へられなかった。
 「極光」と町民文芸誌 戦争の激化から本社を止若に移し、合資会社新田ベニヤ製造所を「新田べニヤ工業株式会社」と社名を改めた昭和19年に、新田ベニヤの社内文芸誌「極光」を発刊した。社員の投稿も多く、A5判50ページ前後を毎月出版し、活字に飢えていた時代のため次号の発刊が待たれる程であった。だが、用紙事情が極端に悪くなって月刊が季刊となり、内容も社内情報が主となり、昭和52年に廃刊した。最後の号はB4判6ページであった。
 町文化協会が中心となり、文芸誌に関心ある町民に呼びかけて幕別町文芸誌編集委員会を組織したのは昭和59年11月。12月に原稿の募集を始め、編集作業に入ったのは60年2月。幕別初の町民文芸誌「まくべつ」を、同年4月に発行した。文芸誌はB6判で50ページ、発行部数は500。以後、年1回発行し、平成6年9月に第10号を発行した。
 なお、幕別町文化協会は昭和44年の設立。初代会長は中村実、以下、昭和48年から吉村康一、昭和54年に石田勝市、昭和61年から勝山衛とかわり、現在に至っている。平成6年4月現在の加盟団体は69。

2 演劇・音楽・美術
 橘 座 止若市街に劇場「橘座」が設けられた年代は不明だが、明治の終りころ岡田東吉によって設けられた。場所は現在の錦町、飲食店「呑」の付近一帯が、その跡地である。岡田東吉は香川県移民奨励会の第1回移住者。明治39年当時、猿別に耕地24町歩、宅地と貸家数戸を所有するまでに成功している。岡田が、初めて700円以上の営業収入をあげ、営業税1等級73銭を賦課されたのは明治42年の第2期。営業の内容は明らかではないが、劇場のほかに味噌醤油の製造にも手を広げていた。経営が岡田東吉から岡田キヌの手に渡った経過は不明、大正8年には岡田キヌが経営していた。岡田東吉は大正9年に美幌へ転出している。
 橘座が開業した当時は、まだ電気の設備がなく、舞台の数か所にランプを置き、花道には無数のローソクを立てて芝居が演ぜられた。人々は橘座に、おもしろい芝居がかかっていると聞くと、遠くから馬車で詰めかけた。
当時、開演が午後8時ころになることも珍らしくなく、終演は、だいたい11時過ぎになった。大正に入って電気がついたが、ひんぱんに停電があり、その都度ランプをつけて熱演を続けたという。大正12年、岡田キヌは
娘チヨの夫・白坂小太郎に劇場の経営を譲った。小太郎は、初め風呂屋を、のち食品店を経営していた。岡田キヌが小太郎に劇場を譲るきっかけとなったのは、大正11年3月4日の火災といわれている。以後・小太郎が死亡するまで経営し、死後、息子の久治に引き継がれた。
 久治が経営に乗り出したころから、映画界が活況を呈し、橘座も連日大入満員となり、観客は飲み食いしながら映画や芝居を楽しんだ。戦後の映画ブームも、テレビが一般家庭に普及するに従い斜陽化し、観客数も、めっきり減少した。久治は昭和38年に経営を中止し、以後、芽室の武田興行によって経営されたが、武田興行も昭和40年3月に手を引き、その後、間もなく橘座は解体された。

 演 劇 昭和6年9月に満洲事変が勃発、翌7年1月に上海事変、同12年7月には日中戦争が始まった。幕別からも若者が続々と戦地にむかい、婦人会などでは慰問袋つくりに精を出した。この時代に、清水藤次郎、佐古敏雄、平出智晴、若月弘?、木川政二郎ら商店の有志が素人芝居を橘座で上演した。入場者から、なにがしかの料金を徴収した。この入場料で舞台の模様を写真にとり、これを慰問袋に入れて出征兵士に郷里の姿を披露した。
 昭和16年、新田診療所に着任した医師・有田博によって、新田ベニヤ工場に新しい演劇が導入された。有田は学生時代に新劇に血道をあげ、学生時代の夢が、新田演劇部の結成となった。部員は、初め中田武、小林勝、安彦忠太郎、東原元市らで、その後、本庄吉晴、杉本正夫、寺山勝次、橘内要吉、松本義隆、渋谷順七、清水久太郎、中村創、新屋敷伝、森滋、佐藤秀雄らも入部した。
 有田は、第1回公演として、科白(せりふ)の勉強になる菊地寛原作「父帰る」を取りあげたが、田舎芝居のセリフ回しを直すのに苦労を重ねた。発表の場は主に新田倶楽部。仕事が終ったあと連日深夜までの練習に、本人たちより家族の方が悲鳴をあげたという裏話もあった。昭和25年の演劇コンクール文化祭には「おやじ」で十勝代表となり、全道大会で好評を博した。この「おやじ」だけで12、3回も公演し、そのうちの1か所で
ある白人小学校では、まだ無名だった「こまどり姉妹」(並木栄子・葉子)と同じ舞台を踏んだ。こののち、同好の士である土居徳朗が入部し、有田の新劇調と土居の歌舞伎調をミックスした演劇で、大向うをうならせた。有田が帯広で医院を開業したため、かわって土居が指導に当たった。その後新田ベニヤの大幅な人事異動などから公演回数も少なくなり、昭和32年ころに自然廃部の形となった。
 昭和24年秋、北海道庁立池田女子高等学校幕別分校で、開校満1周年記念演劇発表会が開かれ「湖の娘」「修善寺物語」が上演された。昭和26年、学校独立を祝った記念祭の6月9日、橘座でセルバンテス作「ドン・キホーテー」を角田慎一、原田光敏、前原懿、秋山稔、上田勝夫、小山優、高田紀子らによって上演した。この「ドン・キホーテー」はのち糠内、白人でも上演し好評を博した。

 音 楽 明治38年3月28日、咾別尋常小学校の訓導兼校長に万城目民治と訓導の万城目ふじほが着任した。翌39年3月、咾別尋常小学校と猿別尋常小学校が合併して幕別尋常高等小学校となったため、3月10日から民治とふじほは幕別尋常高等小学校の訓導として明治40年3月末まで勤務した。民治とふじほは作曲家・万城目正の両親である。万城目正の本名は侃(ただし)。武蔵野音楽学校に学んだのち歌謡曲の作曲家となり、松竹大船時代に映画音楽担当者としてヒット曲をつくり、のちレコード界で数々のヒット曲と美空ひばり、島倉千代子を世に出した。昭和43年、直腸ガンで没した。享年63歳。代表作は「旅の夜風」「リンゴの唄」「懐かしのブルース」「悲しき口笛」など。母親のふじほは、教員になる前、戸長役場に勤めていた、というが年代は不明。。また、幼くして幕別を離れた万城目正には、故郷の記憶はない。昭和35年1月24日、万城目正は両親から聞かされていた「ふるさと」幕別を訪れた。
 万城目は開基70年に制定した幕別町歌、幕別音頭を作曲しているが、開基70年とは別の「幕別音頭」も作曲している。昭和34年9月9日付で万城目から大型の封筒が中島国男町長あて届いた。中には幕別音頭の譜面と一通の手紙が同封されていた。手紙には、
   前略」
先日御依頼の曲出来上がりましたのでお送りいたします 校歌の方はみんなで楽しく歌って頂ける曲をと思って苦労いたしました
遅くなった事をくれぐれもお許し願います 音頭は一番と三番の字の数が逢いませんので適当に歌いように直して預けたらと思います 今出来上ってホッとしたところです
これから京都へ出発しなければなりませんので簡単ですが曲の出来たお知らせまで
末筆乍ら皆様の御健康を祈ります
 幕別音頭の歌詞は、昭和31年に町職員の長谷川信隆が作曲した「幕別音頭」を書き直したものと思われるが、作詩者は不明である。
   幕別音頭
一、ハアー街にタもや漂う頃は
    灯りほのぽの鈴蘭灯
  ソレ明日の希望を呼ぶ並木
    サアサよいよいよいとこさ
よいとこ幕別とんと伸びる
二、ハアー黄金波打つ稔りの秋は
    街に一面穂の香り
  ソレ流れる汗にわく笑顔
    (以下同じ)
三、ハアー白雲たたびく緑の丘に
    駈る小牛は頬よせて
  ソレ牧場の乙女乳しぼる
    (以下同じ)
四、ハアー鮭の故郷千代田え行けば
    おどる銀鱗瀧のぼる
  ソレ一網万両の水しぶき
    (以下同じ)
 万城目正の手紙の文中、校歌とは相川小学校(咾別尋常小学校)の校歌のこと。当時、十勝教育局長だった紅林晃の作詩である。このほか、昭和21年の「幕別小唄」、28年には「水道小唄」と「あきあじ音頭」、43年の「幕別温泉小唄」、61年にレコード化した「まくべつ旅情」がある。水道小唄と幕別温泉小唄は中島国男町長の作詩といわれている。
   水道小唄
一、永の苦労も皆打忘れ
    ほんとにうれしい水仕事
  明るい台所水道の御陰
    文化の生活吾が幕別よ
      (二節以下略)

   幕別温泉小唄
一、はるばる来たよ幕別へ
    大平原をのりこえて
  いとしあの子の面影を
    胸にいだいてはるかな旅路
  来たよふる里湯の町へ
    緑みにしむ慕別温泉
      (二節以下略)

   あきあじ音頭
      作詩  斉藤 毅雄
      作曲  長谷川信隆
一、ヤーレ育てられたよ艀化場の人と
    会うてなつかし四年のえにしヨイトセ
  今じや太洋ホイおそれはせぬぞ
    北の名魚さソレあきあじ様よ
  ドントノレノレエゾヤラホイ
      (二節以下略)

   幕別小唄
作詩  斉藤毅雄
作曲  喜沢悟郎
一、ひるなお暗き柏の大樹
    斧で妬いて五十年
  ソーレおせおせ伸びゆく街を
    そうだ幕別芳さがおどる
      (二節以下略)

   まくべつ旅情
      作詩  堀田 忠雄
      作曲  横内  淳
一、旅の流れに身をまかせ
    一人静める湯のかおり
  まどにオビヒロネオンの夜は
    愛のほかげにゆれるまち
  ああ…わすられぬいで湯の丘よ
    幕別の宿
      (以下略)
 昭和15年ころ、かつて救世軍で楽器を手がけたことのある鈴木己代吉が新田ベニヤに入社、同好の士を集めて、ささやかな音楽の会をもった。昭和19年に新田祐一が社長として着任した。祐一は慶応大学在学中に演奏旅行の経験があった。また、昭和18年9月に祐一と同じく慶応出身でアコーディオンをよくする野本弘が入社した。祐一と弘がリーダーとなり新田吹奏楽部を結成した。この吹奏楽部は新田ベニヤ工場の家族慰安会で活躍、また村民にも披露した。村民は娯楽の乏しい時代に、しかも田舎の街で吹奏楽を生で聴く楽しさを味わった。だが、戦争の影響は吹奏楽部にも及んだ。相次ぐ部員の出征で、極端な時には5,6人という場合もあり、やむなく軽音楽に切りかえた。新田軽音楽部が最も活躍したのは終戦後、娯楽のとぼしい時代に多くの人たちを楽しませた。昭和19年から止若に本社を置いていた新田ベニヤ工業株式会社では、社会が落ち着きを取り戻した昭和22年に、再び大阪に本社を置き、新田祐一は止若を離れた。また、野本弘も本社勤務となったため、軽音楽部は事実上解散状態となった。昭和33年の初夏、橘座で解散音楽会を開催した。
 昭和62年に吹奏楽に興味を持つ4人でスタートした江陵高等学校吹奏楽部に、入部する者が年々増え、平成4年4月には14人となった。平成4年の「まくぺつ産業まつり」に出演したが、初の定期演奏会を、この年の11月8日夜、町民会館で開催した。
 幕別高等学校の吹奏楽は、初めは同好会活動であったが本格的な演奏をという要望から平成3年4月に吹奏楽部を結成、学校祭では揃いのユニホーム姿で町民の注目を集めた。初コソサートは平成4年2月2日に町民会館で開催した。
 札内中学校吹奏楽部の打楽器六重奏が、平成3年2月10日に札幌で開かれた第22回全道アンサンブルコンクール中学校の部で最高賞の金賞を受賞した。演奏した曲は櫛田?之扶(てつのすけ)の作品「イントロダクション・アントダレス No.1」。初出場での栄冠だった。
 幕別出身で中央で活躍している民謡の横川雅美は、食堂経営の金市の5男で9人兄弟姉妹の夫っ子。中学時代に江差追分で全国2位となり、卒業後上京して初代の浜田喜一に師事、昭和44年にコロンビアからデピューした。その後テイチクを経て57年にビクターレコードに所属した。雅美は昭和55年に津軽三味線の横川流を興した。このほか、九本栄一(札内みずほ町)が、北海道民謡界の指導者として活躍している。
 「まくべつ混声合唱団」の結団は昭和61年2月7日。札内福祉センターに50人の団員が、町歌をピアノ伴奏で合唱し結団を祝った。初の演奏会は翌62年12月12日に町民会館で開催した。
 美 術 洋画では二科展連続7回入選の武田文子。独立美術協会7回入選、スペイン美術賞展に入選の大戸秀夫。純生美術協会13回入選の斉藤健昭は幕別町文化奨励章の受賞者。家業の農業に従事のかたわら絵筆をにぎった広瀬有宏は北海道美術協会50年記念展洋画部門の新人賞に入選したほか、平原杜美術協会展に入選している。広瀬も昭和53年の町文化奨励賞の受賞者である。
 元平原社美術協会会長の故・武田伸一の作品を展示するギャラリーを、妻の良子が札内青葉町に新築した自宅に併設し、平成2年11月15日にオープンした。武田伸一は中学校の美術教師。二科展、新道展などで活躍していたが、昭和60年11月に死去。アトリエには200点以上の作品が残されていた。このほか、個人ギャラリーでは彫刻家の小室吏が札内桜町の自宅2階に「コムロ画廊」を平成5年8月5日に開設した。
 美術の公募展、第46回全道展の入選作が平成3年6月17日に発表され、札内共栄町の佐藤克教の版画「彼女の風景」が初出品で道新賞に入選した。道新賞は最高賞である協会賞に次ぐ賞。

 水墨画 昭和53年は午(うま)年。広報まくべつ新年号の表紙と、北海道新聞の全道版に掲載された土井博詞の馬の水墨画は大きな反響を呼んだ。この年の1月22日から25日までの間、土井の友人たちが主催(石田勝市代表)した初の個展が町民会館で開催された。
 土井は大正14年に明野の農家で生まれた。馬が好きで、食事のとき以外は馬小屋にいたという。42歳の時、脊髄腫瘍を手術以来、下半身が不自由になった。退院したが馬の世話が出来なくなったため、北海道の開拓に、物資の輸送に活躍した「ドサンコ馬」を水墨で表現する毎日がはじまった。何れも地響をたてて走る土井博詞描く馬は、芽室町出身の大相撲横綱大乃国の化粧廻し、道営競馬のポスター、帯広東ロータリークラブのバナー(組織の旗印)などに採用された。土井も昭和53年の町文化奨励賞の受賞者。土井は「馬」のほか毎年、干支の絵を発表、また、北海道の山脈を研究し、今まで不明であった山の名前、標高を調査して、これを水墨画で表現した。
 なお、平成7年が妻・幸子との結婚40年目に当たることから、祖父・平三郎が大正10年ころ建てた約110平方メートルの馬小屋を「「土井博詞舘」に改装することとし、3月10日に着手した。10室の馬房をそのまま生かし、6室を展示室、3室を作品の収納庫、1室を和室とし、4月末に完成した。各展示室の名称は、かつての愛馬の名前をつけた。オープニングパーティーには友人、知人多数が参加して6月25日に開催した。
 ほかに山水、浮世絵、仏画を描いた河合福松も町文化奨励賞を受賞している。

 まくぺつ芸術劇場 町民町民が多くの芸術にふれあうことによって、幕別町の芸術文化が高まればと、昭和60年6月18日に発足した「まくぺつ町民芸術劇場」では、運営委員長に藤田和子を選出し、最初の企画として7月14日に札幌交響楽団の演奏会を札内中学校体育館で開催した。昭和61年には安部圭子マリンバ演奏会、62年桂歌丸公演会、63年フラメンコとギターの夕べ、平成元年ふれあいコンサートとまくべつ絵画展、平成2年には5周年記念として上条恒彦コンサートを主催した。
3 電化・放送
4 スポーツ
5 ゴルフ・パークゴルフ

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