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文化と歴史をたどる
 郷土文化ものがたり Part1


幕別町では平成18年度より、郷土文化(主に蝦夷文化考古館資料やふるさと館収蔵物)を研究するために「郷土文化研究員」を配置し、失われつつある郷土文化資料の研究を行っております。このページはその研究の一部を紹介するページです。全てが完全に解明されないかもしれませんが、研究成果をゆっくりとご紹介して行きます。


 「蝦夷考古館と大津」
〜掛け軸の謎を追って〜
郷土文化研究員
小助川 勝義
まえおき

 大津・十勝川学会Newsletter Vol.12の紹介にあるように「幕別の歴史とアイヌ文化」に関わるようになったのは、小生が昭和54年(1979)創立された資料館「幕別町ふるさと館」の活動に参加して以来のことである。同様に、もうひとつの資料館である「幕別町蝦夷考古館」にもコタンの人・研究者・地元の愛好者などの協力を得ながら興味関心の手を広げた。その結果は「吉田菊太郎資料目録I」(平成4年3月31日幕別町教育委員会発行)、「吉田菊太郎資料目録II」(同10年2月27日同発行)として資料の整理を手伝わせて頂いた。自分にとってこれら資料の調査研究はまだ緒に就いたばかりである。
 君会長より発表の機会を与えられたことをきっかけに「アイヌ絵と思われる掛け軸」の謎を追いかけてきた経過にふれ、母なる川「十勝川」に沿って行き来した当時の人々に思いをはせながら、改めて開拓初期の大津と蝦夷考古館のつながりを考えてみたい。

A 幕別町蝦夷考古館について

1. 目的
 チロットコタン・十勝アイヌ及び北海道アイヌの指導者吉田菊太郎は晩年になって、アイヌ民族の民具や着物類などが、いつの間にか自分の身近なところからも消え、散逸していくことに心を痛めていた。そこで資料館を建て、先祖が残した民具を始め、交易によって手に入れた行器(ほかい=shintoko)などの宝物を永久に保存しようと決意した。

 ●資料・アイヌ文化考古館建設についてお願い(昭和34年3月吉日、北海道アイヌ文化保存協会会長吉田菊太郎、外会員一同)
「(前略)鎌倉時代から本道開拓のため移入する内地人の奴僕となって、深い茨を分けて道しるべとなり、或は河(川)に丸木舟を操って荷役に努め、開拓移民の先駆者として文字どう(お)り犬馬の労に身命を曝(さら)す。その酬(むくい)として与えられた品々及び物々交換に依って求めた諸々の物が宝物として先祖は大切に保存し、子孫に遺したのでありますが、之等の古俗品も滅亡する者と共に果敢なく消え失せつゝあることは誠に悲惨な状態であります。(中略)先住民アイヌの先祖に対する餞(はなむけ)として、将た又向後の考古資料にも役立たせようということから、白人古潭のウタリが中心となり、北海道アイヌ〔文化〕保存協会を組織し、古俗品を蒐集して一堂に収め永久に保存する事と、ヌサを設けて先祖が行ったカムイノミの祭り事も今のウタリが生存している間だけでも実行することが同族の義務であるとして、白人古潭にある勅使御差遣記念碑の附近に於いてアイヌ文化考古館(仮称)約30坪総予算二〇〇万円位を建設する企画を樹テ(後略)」
 ※( )内のかな類は筆者が加えたもの

2. 設立
 昭和34年11月完成、同年12月6日落成。設立の中心となった吉田菊太郎は、幕別町を始め各市町村・関係団体、個人さらには遠く東京方面まで寄付を仰ぎ現在地の幕別町千住114番地1に建設したものである。

3. 構造及び経費
 建物延面積は124.44平方メートル(38坪)で、そのうち展示室は42.6平方メートル(13坪)で管理人室は81.8平方メートル(25坪)である。さらに内容を詳しく見ると吉田菊太郎は展示室を宝物堂とし、ベランダは地域の検診室とし、管理人室は六畳二間でそれぞれを居間と台所と考えていた。構造は主としてブロック建築で一部モルタル塗りとなっている。総工費は二百万円で、幕別町からの助成金二十万円を始めとして各方面に寄付を依頼している。

4. 収蔵品
 展示品 参照「吉田菊太郎資料目録I」(平成4年3月31日、発行/幕別町教育委員会、編集/幕別町ふるさと館事業委員会)
 道具類の調査は、平成2年7月末の三日間と平成3年8月の計7日間にわたって行われた。文化財(道具類)は考古学分野の石器類を除いて295点の存在を確認した。
 上記の目録を発行しておよそ1年後の平成5年2月16日、賊が館内に侵入して貴重な展示品を盗まれてしまった。盗まれたものは、エムシ(飾り刀)7振り、パスイ(捧酒箆)28点、イタンキ(お椀)6点、エムシタリ(刀ひも)、トゥキ(神事用の杯)8点など被害合計は65点であった。その後しばらくして北見警察署の手によって犯人が逮捕された。しかし、盗品のほとんどは第三者に売り渡され幕別町へ戻ることはなかった。実に全体の22パーセントの数の損失で、金額にするとおよそ500万円に相当すると言われた。
 文書類 参照「吉田菊太郎資料目録II」(平成10年2月27日、発行・幕別町教育委員会、編集/幕別町蝦夷考古館文書資料調査委員会)
 平成7年に結成された調査委員会は委員長小助川勝義、事務局長内田祐一(帯広百年記念館)、小川正人(北海道アイヌ民族文化研究センター)、山田伸一(北海道開拓記念館)で事務局は幕別町教育委員会郷土文化係であった。
 調査は展示室の民具類とは別に、ベランダの書棚に無造作に置かれた文書類の散逸を防ぐため、緊急に平成元年11〜12月にかけて整理した(主として小助川が行った)。さらに平成7年からは調査委員会を組織し1.文書資料 2.図書資料 3.写真料として大別し、資料の目録編と資料編(資料の内容)として製本・出版したものである。
 文書資料の内容には幕別・十勝、白人・千住、考古館、人物、各種行事、書簡、地図、賞状、名刺などが含まれている。それらの資料は明治20年代以来の資料を多く含んでおり、明治期の十勝アイヌが置かれた状態を知る上で貴重な資料である。この資料の内容には三つの特徴がある。第一は、内海勇太郎が中川郡十弗村外九ケ村の「旧土人共有財産」の管理事務に携わっていた明治期の関係資料がまとまって残っていること。第二は、アイヌの農耕地に関する資料であること。第三は、大津市街の様子や十勝太市街の形成など、明治・大正期の十勝を知る材料が含まれていることである。

5.考古館の管理
 吉田菊太郎は昭和40年(1965)1月8日心筋梗塞で死去した。68歳であった。このとき遺族(妻いさの)は故人の意思を尊重すると言うことで、建物ごとそっくり幕別町に寄贈した。以来幕別町では町教育委員会が考古館を管理している。職員は専門職員を置かず管理人を置いている。初代の管理人は菊太郎の妻「いさの」であった。

B コタンの指導者「吉田菊太郎」(略年譜)

1896(明治29)年 7月20日父トイペウク(吉田庄吉)母アシマツ(マツ)の長男として幕別村白人にて出生。アイヌ名はアリトムテ。
1903(明治36)年 4月白人尋常小学校入学。
1909(明治42)年 3月同校卒業。4月幕別高等小学校入学。
1911(明治44)年 3月幕別高等小学校卒業、農業に従事する。
1924(大正13)年 6月16日幕別互助組合設立、評議員に就任。→28歳
1927(昭和2)年 2月 8日泥酔して自宅を焼き、反省して禁酒を断行する。
5月 8日十勝アイヌ旭明社創立(喜多章明社長)に参加。→31歳
1929(昭和4)年 7月 8日精神修養と生活改善を目的とする白人古潭矯風会創立、会長に就任。以後、特に和風住宅への改築に努める。
1930(昭和5)年 1月旧土人保導委員」に選任される。
3月16日白人古潭納税組合を組織、会長に就任。
10月白人古潭矯風会館建設。
12月白人共栄甜菜組合を組織、組合長に就任。→34歳。
1931(昭和6)年北海道アイヌ協会『蝦夷の光』2号3号編輯兼発行人。
8月 2日札幌で「全道アイヌ青年大会」に参加。
1932(昭和7)年 3月方面委員に任命される。
4月幕別村会議員に初当選
10月結城いさのと結婚(以前二度の結婚はいずれも妻が病死)。
→36歳
1934(昭和9)年 1月道長官より白人古潭納税組合が表彰を受ける。
1936(昭和11)年 4月議員再選。
9月白人古潭に岡部侍従が差遣される。
1937(昭和12)年 3月上京団に加わり旧土人保護法改正案審議の国会を傍聴。
1940(昭和15)年 9月御使御差遣記念碑の除幕式で祝辞を述べる。
1941(昭和16)年 2月納税功労者として道庁長官より表彰を受ける。
1946(昭和21)年 2月社団法人北海道アイヌ協会副会長に就任。→50歳
10月十勝アイヌ協会を結成し会長となる。
11月社会事業功労者として厚生大臣表彰を受ける。
1947(昭和22)年 4月幕別町農業会長に就任。
1958(昭和33)年 5月考古館建設費作りのため「アイヌ文化史」を発行。北海道アイヌ保存協会会長として本州各地で講演・陳情活動を行う。
1959(昭和34)年12月考古館の落成式と祝賀会を開催。→63歳
1963(昭和38)年12月千住生活館落成式で挨拶。
1964(昭和39)年11月北海道新聞社会文化賞受賞。
1965(昭和40)年 1月心筋梗塞で死去。→68歳

チロットコタンの生活、納税、教育、農業の指導者
幕別町の議会(村議二期8年、戦後の町議二期8年)、方面委員(民生委員)、農業の功労者・指導者
十勝アイヌの指導者
北海道アイヌ、アイヌ文化保存の功労者
少年時代は手に負えないガキ大将であったという
体格が良く、声が大きい、字がうまい(書)、話や文章を書くのがうまい、意志が強い
怒ると怖い、酒癖が悪い、実行力がある、逆らうと怖い、青年時代は密漁も

C アイヌ絵と思われる掛け軸

1.経過
 考古館の和室の床の間に残っていた古い掛け軸を調査するため平成16年3月、デジタルカメラで記録した。掛け軸の絵を部分ごとに拡大し、それぞれに描かれているものは何か、作者は誰か、年代はいつ頃かなどのいくつかの調査観点を整理した。同年4月に入ってから幕別町教育委員会の了解を得て調査を開始する。時代や場所ともに浦幌町や豊頃町とかかわりがあると考え、浦幌町教育委員会後藤秀彦次長を訪れ、貴重な助言をいただいた。同年5月、幕別町教育委員会教育長宛にこの「掛け軸」についての経過を報告し、以後は同教育委員会生涯学習課長とともに調査を進める。特に生涯学習課長には作者と思われる笹沢櫟堂について道立近代美術館を始め各方面に調査をいただいた。平成17年4月にはアイヌ絵に詳しい道立釧路芸術館を教育委員会生涯学習課長とともに訪ね五十嵐聡美主任学芸員の見解を聞く。

2.掛け軸の形状
 画布は絹製、高さ1220mm(1990)、横幅520mm660) ※( )は台紙の大きさ

3.絵画の色彩
 地色の全体が褐色、線画等は主として黒で一部に朱色や橙色が使われている。描き方は日本画そのものである。(南宋画の流れ→五十嵐学芸員)

4.保存状態
 長年にわたって家具の後ろにかけられていたため汚れが目立ち、絵の一部に顔料の欠落と思われる部分も見られる。台紙の劣化と傷みも見られるので以後は専門家の手による修復が必要と思われる。

5.描かれている場所と時代
 絵に描かれている時代と場所については、
幕末から明治初期の大津川(現十勝川)とウツナイ川河口辺りでその俯瞰図と思われる。(現在の大津市街)

6.絵の各部
a.上空海に向かって飛ぶ三羽の丹頂(頭頂部が朱色で描かれている)
丹頂は現在でも十勝川下流域から大樹町沿岸で毎年確認されている。
b.遠景日高山脈から太平洋岸
c.中景トンケシ山または襟裳岬
d.沖合三隻の帆船(帆柱が一本)とそれぞれに艀(はしけ)が繋がれている
描かれている帆船は北前船と呼ばれた北前航路に当たる地域で使われた参百石積位から千石積の和船であろう。この和船は一般的に弁済船又は弁財船(べざいせん)とも呼ばれた。この船は明治10年代後半まで使われ、初期の開拓者にとって本州の産品を手に入れるための命綱であった。
e.対岸大津市街と思われる。和風住宅8戸、神社又は寺院1戸、チセ2戸
和風住宅のうち正面に一番大きく間口3.5間くらいの会所らしき家が1戸。
大きな住宅の左側に3戸、右手前に3戸、いずれも間口1.5間くらいの住宅。
一番手前に間口1.5間くらいの住宅又は厩のような建築物。
右手奥には明らかに入母屋造りで鳥衾(とりぶすま)のように屋根の両端が突き出た部分のある建築物が1戸ある。明治以前の大津市街に見られる神社仏閣は稲荷神社以外には考えられない。
左手奥にはチセ(アイヌ住宅)が2戸ある。市街地との間に樹木が描かれているので市街からは少し離れていると思われる。
f.近景チセ1戸、船着場または艀(丸木舟か)、人物二人、かもめと思われる鳥2羽
チセと思われる1戸の家は、屋根が単純な寄せ棟に描かれている
二人の人物は服装や髪の長い人(左側)からみて山側から来たアイヌと考えられる。
手前の川の河口部にいる鳥はカモメかウミネコと考えられる。

    

  

7.作者を探る
落款は「櫟堂逸史」と判明。櫟堂は作者と考えられる。「逸史」とは正史には伝わらない事実を記録したものという意味である。最初の落款印は詞テ帝?(れいこていこん= 古より励む、天門か)とも読めるが判読困難である。二つ目の落款印は明らかに「櫟堂」と読める。
落款にある「櫟堂」に相当する画家は「大日本書画名家大鑑」に笹澤櫟堂とある。1857(安 政4)年、信濃国小県郡塩川村(丸子町)坂井に生まれる。1935(昭和10)年、81歳で没。本名は清十。明治から昭和にかけての花鳥や山水を主として描いた日本画家(南宋画)。31歳で上田に滞在した日本画家児玉果亭に入門して櫟亭の雅号を受け、晩年(60歳以降)に櫟堂と自ら号した。

8. 証言-1
浦幌町後藤学芸員の見解(04.04.28浦幌町教育委員会後藤秀彦管理課長を訪ねる)
家の数から見て幕末と思われる
手前の川はウツナイ川で,上の川が大津川と思われる
稲荷神社は町史では1850年としているが東蝦夷日誌(松浦武四郎)では1844年となっている。したがって幕末と思われる。
船は北前船で当時函館との間に定期航路があった。このくらいの家の数は明治3,4年くらいまでと思われる。

9. 証言-2
道立釧路芸術館、五十嵐聡美主任学芸員の見解
  (05.04.29幕別町教育委員会生涯学習課長と訪ねる)
大津を描いたとすると、大津の住人が市街地を描かせたかったのではないか
場所が大津だという根拠はこの絵だけでは分からない
絵師が大津に来るということはない
日時などの記録が書き込まれていない
箱が見つかると表書きがあるかもしれない
アイヌ文化が無くなるのではないかという懐古趣味的な発想で描かれたものではないか
中景を一番描きたかったところだ
根拠となる地形や絵がある
人物は感情移入のできる部分だ
描かれている二人の人物はアイヌの人だ
絵師の櫟亭については画集にある解説者の竹内さんに依頼するかまたは子孫に依頼すると良い
函館に南画会があり大津とのつながりについて何かが分かるかもしれない
(この絵は)絵画としてきちんとして描いていない
美術的には注文されて描いた絵だ
絵画としての感動というよりアイヌの側から見て分かりやすい絵だ
絵師と時代を考えるとプロモーションとして描かれたものではない(販売目的ではない)


10.アイヌ絵か
a.アイヌ絵の意味
 この絵の下部に二人のアイヌらしき人物が描かれている。アイヌ絵とはアイヌの人々の姿や暮らしを和人の絵師が描いたものを指して言う。従ってこの絵をアイヌ絵の一つとも言えなくもないのではないか。
b.アイヌ絵の目的
松前藩の関係者がアイヌを従えている権威を示すため
和人の商人や船主が本州の人間に蝦夷(北海道)の自然やアイヌを絵師に描かせた
和人の商人がアイヌを介して中国との貿易で手に入れた蝦夷錦や青玉等を示すため
19世紀になってから内陸部などのアイヌの生活を見聞きして記録したもの
c.アイヌ絵は誰が描いたか
松前藩や幕府などのお抱え絵師、商人のお抱え絵師、調査に入った武士
児玉貞良−18世紀前半から宝暦年間にかけて16点
蠣崎波響−夷酋列像(函館図書館)
平沢屏山−アイヌ絵の最後の絵師といわれる、蝦夷風俗十二ヶ月図、アイヌ熊送り図(函館図書館)、絵馬(大津稲荷神社)
その他−歌川国貞(二代)ほか
d.児玉貞良について
アイヌ絵を描いた代表的な和人の絵師、落款は竜圓齊貞良、18世紀松前で活躍した絵師、宝暦年間(1751〜1764) にアイヌ絵の作品を残す
「アイヌ盛装図」(アイヌ民族博物館所蔵)〜白ひげの長老と若い女性
「江差屏風」18世紀半ば、北前船でにぎわう江差の活況を描く
貞良没後さまざまな写本が描かれる
貞良のアイヌ絵には、ほとんどが伝聞によるアイヌのイメージを描いたと思われる(松前候謁見以外は和人居住地以外に許可なくして出かけることは不可能であった)
軸の作者と思われる笹沢櫟堂は明治19年(31歳)のとき、終生の師となる日本画家児玉果亭に入門し「櫟亭」の雅号を受ける。児玉果亭とアイヌ絵を描いた児玉貞良のつながりはあるか。


11.制作年と場所
制作年の下限は絵に描かれている町並みが大津市街とするならば、この絵は明治3、4年頃までであり、この時期に笹澤櫟堂と言われた画家の年齢は13、14歳にしか達していない。したがって雅号もない少年時代にこの絵を描いたと考えることには無理がある。櫟 堂という号は60歳(大正4年)以降の晩年に使用したとある。(武陵桃源・王質爛柯図、大正10年作)
制作場所については、作者が明治の初めに来道したことは考えにくいことから現地大津はもちろんのこと函館に来たということも考えにくい。
18世紀から始まった北前船の根拠地は日本海の北陸で近江商人が船主の始まりといわれている。この北前船は上方と蝦夷までの各地を結び物資と文化を運んだ。このルートを通じて北前船を利用した商人や船主と信州の南宋画家との間に何らかのつながりが出来たことは十分考えられる。
制作年は「櫟堂」という落款が絵師本人のものであるならば大正4年以降と言うことになるが、これでは描かれている絵の内容から見て疑問の残るところである。
制作場所については、作者が来道したと言う事実がない限り信州以外にはありえないのではないか。


12. 掛け軸の辿った道
 掛け軸は吉田家やチロットコタンをはじめ十勝アイヌに大きな影響力を持っていた内海勇太郎が「三影」という人から手に入れ、それをさらに菊太郎が譲り受けたものであった。「三影」という名は、明治20年代の大津市街地図には見当たらない。ところが幕別町史には明治35年幕別村の大津道路沿いに開業した(大正4年まで)三影温泉という旅館を三影末太郎が経営していたとある。この人物との関わりか。 一方、大津・十勝学会のセミナーで配られた『十勝國大津港之真景』(木呂子氏提供)に唐物小間物商根津静江の店舗の絵が描かれ、その絵の下に生國長野縣信濃國上伊那郡伊那町とあった。商人の根津静江は絵師の櫟堂と同郷(塩川・伊那間は直線で約50km)ではないか。

●資料
大津学会で復元した「明治20年代の大津」には郵便電信局の南側と西側の二箇所に内海勇太郎の住居が記されている。
吉田菊太郎文書資料・日誌(1930昭和5年)「5.7.18曇り 内海さんから置床と掛図を貰う。掛図は十勝川口(大津)を書いたもので内海さんが三影さんという人から譲受けたもの」と書かれていた。


13.絵の目的
 かつて十勝又は大津に縁のあった商人、船主、漁師(網元) が北前船の出入りしていた時期の様子を記録する目的で、十勝開拓の初期の玄関口であった十勝川の河口の様子として、大津の市街・船の停泊・アイヌらしき人物・大まかな太平洋沿岸の地形・丹頂などの鳥を描いたものと思われる。

14.今後の課題
 作者についての課題だが、明治の元年にわずか10歳そこそこの少年が信州の上田から蝦夷地にやってきて、十勝で絵を描いたということは考えにくい。この掛け軸は絵画として物足りないだけでなく、制作者の年代と描かれている時代とが違いすぎるのが大きな欠点である。しかしながらこの絵は何らかの目的を持って明治初期の大津市街や十勝川河口部についての伝聞などを元に描かれたのであろう。それにしてもリアルに描いた市街の様子が気になる。今後考えられることは次のようなことである。もう少し調べる余地はある。
・類似、同種の絵画の存在を探る(函館)
・櫟堂自身を地元で探る
・美術史研究家から櫟堂が北海道を描いた可能性を探る
・信州の郷土史研究家などから櫟堂の行動範囲や北前船との関連を探る

●参考資料・年表(関連)
1635(寛永12)大津に十勝場所設置
1799(寛政11)東蝦夷地幕領となる、大津に駅馬7頭配置
1807(文化4)大津に番屋、旅宿所あり
1821(文政4)幕府、蝦夷地全体を松前藩に返還
1825(文政8)杉浦嘉七、十勝場所請負人となる
1828(文政11)大津稲荷神社創立
1845(弘化2)松浦武四郎、東蝦夷地を探検
1850(嘉永3)稲荷神社、字カムマイに豊漁祈願のため新築
1855(安政2)仙台藩の給地となる
1857(安政4)笹沢清十(櫟堂)、信州に生まれる
1858(安政5)3月18日、武四郎、オホツナイに着き、弁天社の神前に座す
1863(文久3)堺千代吉、大津に住み着く
1868(明治元)大津の戸数が三,四十戸となる、十勝四郡は静岡藩の支配となる
1867(明治2)杉浦嘉七、十勝国漁場持となる
1875(明治8)大津駅逓所、大津郵便取扱所できる
1876(明治9)開拓使、漁場持を廃止
1880(明治13)大津に十勝郡他四郡戸長役場置かれる、小学校が稲荷神社拝殿を仮教室として始まる、正福寺創立、十勝一円にトノサマバッタ大発生


D 内海勇太郎とコタン

1 内海勇太郎
・逝 去 昭和4年(1929)頃、死亡。
・大津村〜明治20年にはすでに居住(大津村番外地、字元通8番地)
・幕別村〜
  (町)  
明治36年勇太郎、家庭の一部を猿別市街に移す。更に明治41年、大津村より幕別村白人村南四線八十三番地へ移転。(吉田菊太郎の隣)
・帯広市〜昭和18年5月、内海碧(勇太郎の長男)が帯広移転に際し土地・家屋・什器・家宝その他の管理を吉田菊太郎に委託する。
・職業等商人、経営者、村会議員、公職等

大津村〜渡船業(大津)、燐寸軸製造業(明治31=1898年、凋(せいおろ)寒(さむ)村字大曲=ヲコトイ)、十勝太新市街宅地団体出願同盟、旧土人組合の事務、十勝太鉄道に関して十勝海岸線保持同盟
幕別村〜十勝国旧土人組合の幕別・池田関係の財産管理事務、アイヌ関係から官庁への事務手続きを行う(公職並)、ウタリの改名、村会議員

・大津での交友関係 〜石黒林太郎、小松常吉、高久忠司(講の発起人)、斎藤兵太郎、大津蔵之助(新市街地関係・蔵之助は十勝中川両群各村総代人)、野村新八郎(製軸工場の共同経営者・勇太郎の資金提供者・青森県野辺地村)
・凋寒村での交友関係〜和知金次郎(製軸工場の保証人)


2 十勝アイヌとの関わり
1875(明治8)年十勝国旧土人組合を結成。以後5年間、アイヌの生活安定のためという全十勝のアイヌが参加した漁業組合。この共有財産は官が管理した。
1891( 同 24)年同組合を広尾・当縁・十勝他四郡に分割。
1893( 同 26)年十勝外四郡を中川郡豊頃村以南(一区)と中川郡十弗村以西北(二区)に分割。
1894(同 27)年二区を中川郡と河東・河西両群に分割した。
この時の中川郡当弗村外九か村の代表が幕別村のアリイタキと白人村のチヨロカウク(長谷川由太郎)立会人が大津村の石黒林太郎と内海勇太郎、下帯広村の渡辺勝であった。この時、内海勇太郎は中川郡十弗村外九か村百三十五戸の財産管理事務として雇われた。以後、明治32年中川郡旧土人財産保管組合が解散するまで内海が実質財産を守った。
1896(同 29)年旧土人開墾予定地仮下渡願を惣代チヨロカウクの代理として内海勇太郎が道庁に提出。
1897( 同 30)年北海道国有未開地処分法公布→入植者、団体入植、大農場の開拓始まる
1903(同 36)年勇太郎家庭の一部を猿別市街に移す。
1904(同 37)年内海の指導で古民共済組合をチヨロカウク(長谷川由太郎)トイベウク(吉田庄吉)が組織。
1905( 同 38)年白人土人開墾組合(総代吉田庄吉、組合長幕別村長)を組織し組合員の負債解消を目的とし最後は内山勇太郎に畑を貸付。この貸地料3年間分で残りの負債を解消した。
※以上の仕事はほとんど公職並と思われる。
1908( 同 41)年勇太郎家族、幕別村白人村南四線八十三番地へ移転。(吉田菊太郎の隣


3 公職
・幕別村々会議員〜明治39年4月(二級村施行時)、同40年、同43年、同44年、大正8年(一級村施行時)、同14年、昭和3年開村三十年記念式で自治功労者受賞同21年幕別開基五十年記念並町制施行祝賀式で自治功労者受賞

・水害善後期成同盟幹事〜1922(大正11)年12月
・旧土人保護事業特別功績者〜1928(昭和3)年、幕別村より表彰。

4 吉田菊太郎とのかかわり
勇太郎は親の庄吉だけでなく息子の菊太郎にも幼少の頃から精神的にも人間的にも大きな影響を与えた。更に菊太郎が成長し、コタンの指導者となった後も菊太郎に大きな影響を与えていた。

●資料 内海碧殿宛ての「管理快託(諾)書」から(本文はカタカナ・碧は内海の長男)
「(前略)菊太郎は幼年の時から内海碧さんと親交の間柄でありました。菊太郎の青年時代からは殊に碧さんのご両親から我子のように愛され種々と面倒見て貰ったものです。菊太郎は常に碧さんのご両親を真の親のように慕ひ、又主従の間柄のようにも思って内海家に従へ(っ)て来たものです。碧さんのご両親はアイノウタリーの恩人でもあるのです。ウタリー達の改名など、特にアイノウタリーの精神修養等々、それであります。『人は死んで名を残す。』とか。内海ニシパが亡くなられて後に至ってアイノウタリー達のニシパに対する敬慕、感謝の念が倍化されるに至りました。(後略)」


むすび

 絵については当初書かれていた落款と落款印を手がかりに調べていたが、関係者の方々のお陰で何とか絵師まで辿り着くことができた。そして、絵の特徴・描いた場所・描かれた絵の時代もほぼ分かってきた。しかし、絵師が『いつ』、『どこで』、『何のために』、『誰から頼まれて』描いたのかについてはまだ推測の段階に過ぎない。今後の課題である。
 一方、掛け軸の辿った道を調べるには、考古館そのものから調べる必要があることに気がついた。調べていくうちに、考古館の設立者である吉田菊太郎及びコタンと吉田家に大きな影響を与えた内海勇太郎という人物とそのかかわりを知ることが必要であった。その結果、考古館の文書資料(日誌)から吉田菊太郎と内海勇太郎の人間関係が浮かび上がり、掛図(掛け軸)は菊太郎が大津から幕別に移り住んだ勇太郎から譲り受けたものであることが判明した。さらに勇太郎は三影という人物から掛け軸を手に入れたことも分かった。三影末太郎なる人物いったいどこから幕別へやってきたのか不明である。最後に、明治当初の大津市街の商店街にもこの掛け軸の謎を解く何かの鍵があるのではないかと思えてきた。
 明治初期、十勝の内陸開拓の玄関口である大津や十勝川河口付近に居住していた人々は後の人々の生活や文化にも大きな影響を与えて来た。その中の一人である内海勇太郎という十勝開拓の黎明期に政財界及アイヌ民族に少なからぬ影響を与えた人物がおり、その保管していた文書資料が考古館に残っていた。その資料は吉田菊太郎が残したものとは別で、内海勇太郎の遺族から寄贈されたものであった。この文書資料にはアイヌ関係と十勝開拓初期の歴史資料と言う意味から、十勝の歴史の点と点をつなぐ貴重な資料であると考えられる。今後も研究者諸氏のご助言をいただきながら更に調査研究を進めたい。
最後に君尹彦会長をはじめ、貴重な助言をいただいた浦幌町教育委員会次長後藤秀彦氏、帯広百年記念館主任学芸員内田祐一氏、北海道近代美術館・道立釧路芸術館主任学芸員五十嵐聡美氏、何かと便宜を与えてくれた幕別町教育委員会、ご協力をいただいた関係者の皆様に感謝を申し上げ終わりとしたい。

参 考 文 献

幕別町史(70年史)
幕別町百年史
幕別開基五十年史(幕別新聞社)
浦幌町史
浦幌町立博物館紀要第3号(後藤秀彦:トカチの登場とトカチ場所の成立)
豊頃町史
帯広市史(平成15年編)
池田町史
吉田菊太郎資料目録I(幕別町教育委員会H4.3.31)
吉田菊太郎資料目録II(幕別町教育委員会H10.2.27)
アイヌ文化史(吉田菊太郎S33.5.10)
大日本書画名家大鑑
蝦夷風俗画展(リッカー美術館)
アイヌの四季と生活(十勝アイヌと絵師・平沢屏山・財団)
十勝國大津港之真景(Copy.木呂子氏提供)
北海道の歴史(榎本守恵.北海道新聞社)
北海道の地名(山田秀三.北海道新聞社)

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